
イタリアではこれまで470のアコーディオンの会社ができた。現在、残っ
ているのは60社。90%が閉鎖した。ここ数年、また、減った。 かつて
イタリア以外に、ドイツ、フランス、アメリカ(イタリアの移民による
出先工場)、旧共産圏、北欧に、南米に、そして日本と世界中にメーカー
があった。アコーディオンが注目を浴びた時代だった。一番売れたのは
1960年前後だったようだ。しかしその後もアコーディオンは多くの人
に愛されてきている。ビートルズのジョン・レノンがギターの替わりに
アコーディオンを弾いている写真がある。ある人がいった「アコーディ
オンの黄金時代」。リードの響きに民族の情念が渦まいた。楽器にこめら
れた民族の印(サイン)とは何だったのだろうか。
(470メーカー詳細リスト http://www.act-bay.com/book/index.html
でダウンロード下さい)


1 アコーディオンは愛され続けてきた!
ITALYのメーカーの消長が世界のアコーディオン市場の縮図だと見ると
世界の市場が劇的に変化してきたことが分かる。
<イタリア国内の新設アコーディオン会社 申請件数>
1850年~1900年 52件(50年間累計)
~1920年 61 (以下20年ごとの累計)
~1940年 95
~1960年 194
~1980年 26
~現在 22件
*第1号登録は1850年のPANTALEONI。あのパオロソプラーニは7番目、1863年、ダラッペは17番目の1876年。大きく言えば1900年に入ってから市場が順調に成長しピークは1960年代
だった。1970年代には減少に転じた。減った原因。それは60年代後半
からはじまった新しい楽器(エレキギター、エレクトーンなどの電子
楽器)のブームににおされたという説がある。 が、実際はよくわか
らない。それ以上に余暇アイテム自体が膨張し、お客が散逸したので
はないか、という考えもある。
150年の間にいったい何台のアコーディオンが世に出ただろうか。
カステルフィダルドの市庁舎B1Fにあるアコーディオン・ミュージアム。
時代がアコーディオンに要求した機能、かたち、デザインと多くの
職工が技をきそって市場にマッチしようとした歴史がそこにある。
ミュージアムには事業の興った1850年頃から始まり現代で終わる。
こんなこともあったよ。あんなこともあったよと無数の展示品が私に告
げてくれているような気がした。何台かは私のコレクションになっている
なつかしい楽器だった。

室内の片隅に2つの写真があった。1つはジョン・レノンで、GOLA
(ゴラ、HOHNERの最高機種、定価420万円)が彼の肩から今にも
ずり落そうになっている写真だ。ショルダーベルトの掛け方がちがうよ、
といいたくなる。これは彼のスタイルなのか。パフォーマンスだったのか。
ジョンの物憂げな目線の先に何があったのだろう。祈りの曲「イマジン」
のメロディがあったのかどうか。
アコーディオンが出せる唯一の音色、豊かな色をなすリードの響き。
彼が暴漢に襲われ命を奪われる直前まで弾いていたというピアノが先日
オークションにかけられた。それはすこしいびつで、使い古した感じの
小さなピアノだった。気軽に持ち出せるアコーディオンはジョン・レノン
にとって彼の音楽の1つの要素だったと思うとほっとするのである。
スティーブ・マックィーンの画像
もう1つの絵はスティーブ・マックィーンで、彼が浅黄の着古したジ
ャケットでボタンアコーディオンを前かがみにかかえている。そばの
衛兵らしき者が彼を呼び止めようとしている。チンパンジーが一緒だ。
何かの「ふり」をするためなのか、それともちゃんとアコーディオン
を弾いていたのかはよく分からない。
プレスリーは若い頃にアコーディオンを弾いたのだと聞かされたこ
とがある。ギターを持つ前、デビューする前のことのようだった。
彼のヒット曲もいくつかアコーディオンのピースになっている。
譜面といえばアメリカで市販されてきた種類はすこぶる多い。シアー
ズに代表される通信販売が世界で始めて興った国がアメリカである。
地方を遠隔地を民族を超えて、いくつかの言語でアコーディオンの普及
がはかられたことが数多くの譜面や教材が示している。

*「アコーディオンの罪」(アニー・プロー作)ではシチリアでできた1台のダイアトニックがルイジアナに渡り、数奇な運命をたどる。1900年代の民族の移入と喧騒が詳しく書かれている。

ジャズ、ロック、ワルツ、ポルカ、マーチ、賛美歌、人気映画のテーマ
曲はそしてクラシックまで何でも揃っている。おなじみのマニアンテ、
ピエトロ・デイロ、ガラニーニ、ガビアーニからジャズのマイルス・デイ
ビス、マット・マシュー、マロッコなどなど。今で言う楽しむソフトも
黄金期だったのだ。
では現在はどうなのだろうか。全体で見れば、国が変わってしまった
かのように少なくなってきている。しかし、アレグリア(シルク・ド・
ソレイユによる大道芸のエンターテイメント版。ケベックの州都モント
リオールが本拠のフレンチと世界が融合した摩訶不思議なショー)の
テーマ曲や挿入歌はミュゼット系のアコーディオンが活躍している。
アコーディオンは普及したがゆえに、あまり前面に出てこなくなった
のかもしれないと思う。
現在アコーディオン用にCDやDVDも発行されているが数は多くない。
最大手MELBAY社のカタログは厚さ5cmほどの電話帳ほどもある400
ページだ。肝心のアコーディオン関係はわずか3ページでしかない。
譜面の画像
アコーディオン黄金時代の譜面は実に豊かだ。数も多く、表紙デザインも面白い。
2 移民がつくったアコーディオンの印とは?
アメリカは移民でできた国といえる。この移民がアメリカにおけるアコ
ーディオンの普及と多様な楽器づくりに関係したと思われる。1790年、
といえば日本は江戸の中期、アメリカでは連邦政府によって実施された
はじめての国勢調査がこの年おこなわれた。先住民をのぞいた人口は398
万人だった。国土も今ほど広くなかった時代である。
イングランド系50%、黒人系20%弱、アイルランド系20%弱、
これにドイツ系、オランダ系、フランス系と続く。時代がおくれイタリア、
スペイン(含むメキシコ)、東洋系が増えていった。詳細は専門書にまか
せるとして移民たちは生まれ育った文化、音やリズムを新大陸に持ち
込んだ。ジャズがそうだったように在来の文化になじみ、変化しアメ
リカ的なものになって定着していった。
面白いデータがある。よく知られたミュゼット・チューニングの
「波(なみ)」のデータである。それぞれ移民は固有の「ゆれる音」を持
っている。その音は古来からDNAを経由して受継がれてきた。意識しな
くとも体がゆれる望郷の印(サイン)か。
ミュゼット・チューニングは移民の国の数、文化の数だけあるため複雑
で一筋縄ではいかない。楽器選びで悩むことの1つはこのミュゼットの
「波」を選択しなくてはならないことだ。新たに「波」を調律しなおす
場合ももめることが多い。しかも音階は均一ではなく、低音域から高音域
に音程カーブという波が別にあって、ミュゼットはこの音程カーブの波の
上にのせることになる。アコーディオンの響きができる面白いポイントで
もある。
ミュゼットチューニングは、アコーディオンの高音部の基本になるMリー
ド(ミディアム:中間の意味。この頭文字のM。通常クラリネットリード
といっている)が高音部に2枚づつある楽器で、うち1枚分のリードのピッ
チを意図的に上げてうなり(別名トレモロ、日本では「波」)をつくるものだ。
民族、文化によって異なるミュゼットの波は以下のようになっている。
<MM2枚の波のつけられかたのデータ>
・アイリッシュ 25-30(セント、以下同)
・フランス 20
・イタリア 20
・ドイツ(ポルカ) 15
・日本(演歌) 13-15
・テキサス(TEX-MEX) 15
・スロベニア 11
・ルイジアナ(Cajun) 10
・ケベック 7
*ジャズ 4-5
*(1秒間の何回うなりが出るかを、ヘルツ数、セント数で区別する。4~5セント分
が1秒間に1回のうなりに相当。1秒に3回うなりが聞こえる場合は、セント数で12
~15、ヘルツで3のピッチ差があるということになる。)
魅力的な演奏の1つは、もともと曲の背景にある文化、民族のテイストを
作曲家の意図で再現する点にあるとすれば、楽器は曲にぴったりの波を持った
楽器を使うに限る。近い、ではなくそのものズバリの「波」をである。
演奏の「波」が聴衆の脳をDNAレベルで刺激し、客席は感動の涙にくれる
だろう。そうなればミュゼット調整の機会が一気にふえ、アコーディオンの
調律マンの頬はおのずとゆるむという話である。いかがなものだろうか。
筆者による「アコーディオン楽器トークショー」11月30日~12月3日、大阪市西区南堀江1の
Prickle06-6532-3009にて。イタリア・楽器の街のミニ写真展や調律実演を行います。
(以下次号)
(ご案内)「アコーディオン楽器トークショー」11月30日~12月3日、大阪市西区南堀江1の
Prickle06-6532-3009にて。この項の内容の一部を写真、イタリア・楽器の街のミニ写真展
や調律実演を行います。(原田)
カステルフィダルドには2つの小山がある。1つは1000年の歴史をもつ旧市街
の砦の街。ここがアコーディオンの故郷といっていい。この旧市街を見渡せる
位置にモニュメントと地元でいう、公園の丘がある。
2006年4月はまだ朝は冷たい風が丘をふき抜ける。頂上にはモニュメントの
名前のもとになったレリーフが威容をみせている。
そう古くは無い頃、このカステルフィダルドが敵の攻撃を受けたとき市民含めて
勇敢に戦って、街を守ったというふうに思える巨大なレリーフだ。


しかし、アコーディオンのメッカの根源は実はこのモニュメントの丘のとなりにあった。
墓地である。
ここにはアコーディオンの父でありカステルフィダルドの一番尊敬される人パオロ・
ソプラーニほかが眠っているはずだ。きれいな壁面の墓標がいくつも建っている。
朝もやを切り裂くように立っている。墓標の装飾もITALYらしくあかぬけしている。
デザインの民は眠りの場もそれにふさわしい墓標だ。モリビドーニの名前もあった。


でも楽器作りに汗を流し、工夫をし、音を調べて、改良してきた多くの職人はおそらく、
この丘にはいない。ここは一等地のモニュメントで限定された人のみが眠れる場所
なのだという。
アコーディオンの472ものメーカー、その90%以上は開始後まもなくやめ、あるいは
100年近く続けた末にやめた。
ELIO GBBANELLIも言っていたように、「アコーディオンでは家族を養えない」のだと
いう。せめぎあうようにして立ち並ぶ旧市街の石畳を歩いているとなにか魂がささや
くような気がした。多くの職人がその家族がここで暮らし、働いてそして死んでいった。
その1つ1つの命が今弾いている楽器のもとになって、まだ生きている。そんなカステ
ルフィダルドの夕暮れは、また人恋しい。


庭に並べられたアコーディオン。
むかし、昔。といってもさほど遠くない昔、世界の街角で、流れてくる
アコーディオンの音色に思いをよせ、弾いてみたいと恋こがれた時代
があった。
アメリカはそういった国の中でも普及した数の多さでは群をぬいている。

*写真1930年代後半のサンフランシスコ市内のアコーディオン・ピクニック
町中のアコーディオンファンが郊外の野外舞台で日なが繰り広げられる
アコーディオンの演奏を皆で楽しんだ。
From Golden Age of Accordion
Estate Sale(エステート・セール)というアメリカならではのリサイクル、物品
処分の習慣がいま、アコーディオンを楽しむうえで1つのお宝になって
いる。
このセールは亡くなった人の所帯道具を庭に並べ欲しい人に販売する
イベントでリサイクルと処分をかねている。ここからアコーディオンがざっく
ざっくと出てくる。ちょうどエステートにアコーディオンを出す世代の人たち
はかってのアコーディオン黄金期の主役の一人だった。
世代が替わり始めて、結果引取り手の少なくなった家財道具の中に
アコーディオンがある。
エステートにいいものがあるので新聞の開催ガイドを頼りにこのセールを
はしごするマニアもいる。 しかしこういった御仁から中古楽器を買うの
は極めてばくちでもある。ひいきめに見ても10台中、5,6台は動かない
鍵盤、革のそったリードはまただしも、さびたリードがブロックごと抜け落
ちたバラバラ事件も珍しくはない。
そんな中にきらりと光る良質の楽器があったりするので、目が放せない
のだとシカゴにいる師匠のジェリーが言っていた。
あのGOLAだって地味なケースに収まって家財道具に混じってそこに
並べられれば使い古しのトランクケースと見間違われ、値がつかずに
放置されかねない。
Dallapeのスーパーマエストロはメリハリの利いた音色の美しい楽器が
多い。あまりに美しいのである年、本業の出張の合い間、ミラノ南郊に
あるダラッペを尋ねたこともあった。ストラデーラ。楽器に詳しい方は
ストラデーラといえば左のボタンの別名、とご存知の方も多い。
この地ストラデーラには中央のカステルフィダルドにつぐアコーディオン
の一大産地だった。ダラッペはその名主なのだ。ここでできた左のバス
の仕組みをステラデーラというのかどうか、正直まだ確認できていない
けれども、おそらくそうではないだろうか、と思う。
人を介してこのダラッペを数台のマエストロを含めつごう7台入手した。
遠くアメリカのEstateからのものも含まれているに違いなかった。イタリア
で生まれ、海路アメリカから五大湖を横切って、シカゴについたその
ダラッペはどんな人にそのまれな美声を捧げたのか。
銘器からは今は亡きオーナーの思いがジャバラを伝って漏れ響く。
新しい主人、私の手元で輝きをましている。




1 アメリカの傘の下で育ったアコーディオン
「なあ、ノリ」とエリオ・ガバネリが私に言った。「この岬のむこうのアンコナの
港から月に5万台もシッピングされたんだ」。
2006年4月は初旬、ドイツ フランクフルト楽器メッセの帰路立ち寄ったここ
イタリア。ちょうど中ほどの東海岸(ギリシャ側)にアンコナがある。この日は
初めて訪問した私をエリオが土地のレストランに案内してくれた。
レストランLa Grottaはアンコナ南部の景勝地シローロの一角にあった。
多くの楽器工場があったレカナティを横目に、クルマは海岸に向かった。
急峻な路を降りると、小さな入り江があった。
へばりつくように1軒のレストランがあった。伊豆の西海岸に似ていると思った。
4月も初旬のこの季節はまだ冷たい風が時おり吹き抜ける。
海はと見ればもう初夏の色だ。緑色がまさった群青の海が目の前にひろがる。
大きな体をゆすってシェフがすすめてくれたアドリアの魚介サラダをほおばった。
日本の海鮮サラダににているが、オリーブのかおりと、新鮮な酸味が心地いい。
エリオが話す。

「うちのおやじなんか小学校もそこそこにアコーディオンの職工で身を立てたんだ」。
「もう俺の代で終わりだな。息子には継がせない。」


エリオの父、ウバルドもアメリカに輸出をして60年ちかく家業を支えてきた。
当地の対米輸出が月5万台のその時代、いったい何台をこのウバルドが
つくったのだろうか。彼の工房は小高い城砦の街、カステルフィダルドの
ほぼてっぺんにひっそりとある。あたりのアコーディオン工場にはかつての
賑わいはない。ガバネリにも常雇いの職工はいなくなった。エリオとウバル
ドの親子2人に時おり手助けに職工が出入りする程度だ。石造りの町工場
(こうば)は1Fで木材加工、2Fで木組み、部品づくりとアッセンブルをする。
ここに20名近くの職人が立ち働いてきた。石階段のステップが丸くすりへっ
て往時をしのぶ。
1950年から60年あたりを中心に前後の約半世紀を「アコーディオン
の黄金時代」といっている。大量の生産を支えたのが他ならぬアメリカ
の市民だった。その強大な購買力が多種、多彩なアコーディオンをつくる
原動力になった。教室を生み、先生を、演奏家を育てた。
アメリカの果たしたアコーディオンへの功績は大きい。
目が飛び出るほど高かったこの楽器を子供に買い与え、教室に通わせ
発表会には家族で着飾って出かける。野外で日なが繰り広げられる
アコーディオン・ピクニックは楽しみの少ない地方の町では大きなリクリ
エーションだった。楽しむ人、教える人、演奏家、楽器販売人が支えて
黄金時代ができた。よき時代にアコーディオンは光を放ち続けた。
-以下 次回-