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アメリカがアコーディオンの豊かさをつくった。そして---NO.1

庭に並べられたアコーディオン。


 むかし、昔。といってもさほど遠くない昔、世界の街角で、流れてくる
アコーディオンの音色に思いをよせ、弾いてみたいと恋こがれた時代
があった。
 アメリカはそういった国の中でも普及した数の多さでは群をぬいている。



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*写真1930年代後半のサンフランシスコ市内のアコーディオン・ピクニック 

 町中のアコーディオンファンが郊外の野外舞台で日なが繰り広げられる
 アコーディオンの演奏を皆で楽しんだ。

 From Golden Age of Accordion

Estate Sale(エステート・セール)というアメリカならではのリサイクル、物品
処分の習慣がいま、アコーディオンを楽しむうえで1つのお宝になって
いる。
このセールは亡くなった人の所帯道具を庭に並べ欲しい人に販売する
イベントでリサイクルと処分をかねている。ここからアコーディオンがざっく
ざっくと出てくる。ちょうどエステートにアコーディオンを出す世代の人たち
はかってのアコーディオン黄金期の主役の一人だった。
世代が替わり始めて、結果引取り手の少なくなった家財道具の中に
アコーディオンがある。

エステートにいいものがあるので新聞の開催ガイドを頼りにこのセールを
はしごするマニアもいる。 しかしこういった御仁から中古楽器を買うの
は極めてばくちでもある。ひいきめに見ても10台中、5,6台は動かない
鍵盤、革のそったリードはまただしも、さびたリードがブロックごと抜け落
ちたバラバラ事件も珍しくはない。
そんな中にきらりと光る良質の楽器があったりするので、目が放せない
のだとシカゴにいる師匠のジェリーが言っていた。
あのGOLAだって地味なケースに収まって家財道具に混じってそこに
並べられれば使い古しのトランクケースと見間違われ、値がつかずに
放置されかねない。


Dallapeのスーパーマエストロはメリハリの利いた音色の美しい楽器が
多い。あまりに美しいのである年、本業の出張の合い間、ミラノ南郊に
あるダラッペを尋ねたこともあった。ストラデーラ。楽器に詳しい方は
ストラデーラといえば左のボタンの別名、とご存知の方も多い。
この地ストラデーラには中央のカステルフィダルドにつぐアコーディオン
の一大産地だった。ダラッペはその名主なのだ。ここでできた左のバス
の仕組みをステラデーラというのかどうか、正直まだ確認できていない
けれども、おそらくそうではないだろうか、と思う。
人を介してこのダラッペを数台のマエストロを含めつごう7台入手した。
遠くアメリカのEstateからのものも含まれているに違いなかった。イタリア
で生まれ、海路アメリカから五大湖を横切って、シカゴについたその
ダラッペはどんな人にそのまれな美声を捧げたのか。
銘器からは今は亡きオーナーの思いがジャバラを伝って漏れ響く。
新しい主人、私の手元で輝きをましている。

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1 アメリカの傘の下で育ったアコーディオン
「なあ、ノリ」とエリオ・ガバネリが私に言った。「この岬のむこうのアンコナの
港から月に5万台もシッピングされたんだ」。
2006年4月は初旬、ドイツ フランクフルト楽器メッセの帰路立ち寄ったここ
イタリア。ちょうど中ほどの東海岸(ギリシャ側)にアンコナがある。この日は
初めて訪問した私をエリオが土地のレストランに案内してくれた。
レストランLa Grottaはアンコナ南部の景勝地シローロの一角にあった。
多くの楽器工場があったレカナティを横目に、クルマは海岸に向かった。
急峻な路を降りると、小さな入り江があった。
へばりつくように1軒のレストランがあった。伊豆の西海岸に似ていると思った。
4月も初旬のこの季節はまだ冷たい風が時おり吹き抜ける。
海はと見ればもう初夏の色だ。緑色がまさった群青の海が目の前にひろがる。
大きな体をゆすってシェフがすすめてくれたアドリアの魚介サラダをほおばった。
日本の海鮮サラダににているが、オリーブのかおりと、新鮮な酸味が心地いい。
エリオが話す。
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「うちのおやじなんか小学校もそこそこにアコーディオンの職工で身を立てたんだ」。
「もう俺の代で終わりだな。息子には継がせない。」 
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エリオの父、ウバルドもアメリカに輸出をして60年ちかく家業を支えてきた。
当地の対米輸出が月5万台のその時代、いったい何台をこのウバルドが
つくったのだろうか。彼の工房は小高い城砦の街、カステルフィダルドの
ほぼてっぺんにひっそりとある。あたりのアコーディオン工場にはかつての
賑わいはない。ガバネリにも常雇いの職工はいなくなった。エリオとウバル
ドの親子2人に時おり手助けに職工が出入りする程度だ。石造りの町工場
(こうば)は1Fで木材加工、2Fで木組み、部品づくりとアッセンブルをする。
ここに20名近くの職人が立ち働いてきた。石階段のステップが丸くすりへっ
て往時をしのぶ。




1950年から60年あたりを中心に前後の約半世紀を「アコーディオン
の黄金時代」といっている。大量の生産を支えたのが他ならぬアメリカ
の市民だった。その強大な購買力が多種、多彩なアコーディオンをつくる
原動力になった。教室を生み、先生を、演奏家を育てた。
アメリカの果たしたアコーディオンへの功績は大きい。

目が飛び出るほど高かったこの楽器を子供に買い与え、教室に通わせ
発表会には家族で着飾って出かける。野外で日なが繰り広げられる
アコーディオン・ピクニックは楽しみの少ない地方の町では大きなリクリ
エーションだった。楽しむ人、教える人、演奏家、楽器販売人が支えて
黄金時代ができた。よき時代にアコーディオンは光を放ち続けた。


-以下 次回-

投稿者 harada : 2007年09月13日 14:25
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